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      「見世出し」-其の一-

      Posted by admin on 25th 5月 2008

      「われしのぶ」

      舞妓、芸妓のお披露目のことを京都では「見世出し」と言う。
      見世出しにあたって、女将はまず本人の姉芸妓とその仲人(お茶屋の女将)、見習い茶屋を決めなければならない。姉芸妓(または舞妓)は廓の中では特別な存 在で、物心両面で本人を支える役である。屋形の女将にはわからない屋形の外での本人の教育は姉芸妓が責任を持ってつとめる。たいがいは屋形の関係筋の芸妓 が選ばれ、本人が名指しできることは99%無いとみてよい。
      仲人は文字通り姉妹の仲を取り持つ役。見習い茶屋は見世出し前の一ヶ月程の見習い期間を世話のなる茶屋、の意だが、実際には廓の中にいる間中はやはり本人の物心両面を支える特別な存在のお茶屋である。
      芸名は姉の芸名の一文字か二文字をとってつける。見世出しの日取りが決まれば試験を受けなければならない。(宮川町では試験をパスしなければ舞妓芸妓には出られない。課題曲を二つ、お茶屋役員、芸妓役員の前で披露するのだ)
      そしてパスすれば「お盃」と言う重要な儀式が待っている。「お盃」は歌舞練場の大広間で行われ、本人と姉芸妓、姉の姉妹筋の芸舞妓、見習い姉妹(同じ茶屋 で見習いをした妓たち)、お茶屋組合役員、芸妓組合役員が居並ぶ中、それぞれに杯事をかわす。盃によって廓の人間として組合からも認められ、また廓の中で 助け合ってゆく姉妹関係も作られるのだ。
      そしてこの日か、もしくは何日か後の吉日に、見習い始めの挨拶に回り、仕込みさんではなく「見習いさん」と呼ばれることになる。見習いさんになった妓はそ の日からお座敷に出る。見習い茶屋を中心に様々なお茶屋で実地の訓練を受ける。髪は「割れしのぶ」という若い舞妓の形。(舞妓は地髪で日本髪を結ってい る)半だらという普通の舞妓よりも短い帯をしめる。芸妓ならば、島田を大きめに結い上げたかつらに派手な飾り付けをし、いかにも初々しい。緊張と失敗の連 続であるこの期間には、忘れることのできない思い出も多いという。

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      「仕込みさん」

      Posted by admin on 25th 5月 2008

      現代っ子が「仕込みさん」の期間にうけるカルチャーショックは相当なものである。
      「まち」の感覚から「廓」の感覚へ頭の中を変えてゆかねばならないのだから。この間は立ち座りから箸の上げ下ろしまで厳しくしつけられる。夕方には玄関を 掃除してのれんをかけること。お客をもてなす心を養うためである。先輩芸妓や舞妓が着付けをするとき紐を手渡したり、帰ってきて脱いだ着物をたたんだりし て和服の扱い方を覚えること。少し慣れてくると電話の応対や他のお茶屋へおつかいにやらされたりするが、これは他の女将さん達に顔を覚えてもらうという意 味もある。
      お行儀が身につてくると二階のお座敷にお酒を運んだりすることもある。お座敷の雰囲気になれる為もあるが、お客に顔を覚えてもらうのも重要な理 由だ。お客からすると仕込み時代から知っている妓には格別の思いがある様で長くひいきにする例が多い。素顔にGパンをはいていた少女が一人前に成長する姿 を見るのは、男女というよりも親子の情に近いものがあるのだろうか。仕込みの時代はお稽古以外の時間はほとんど他の人達のために費やされる。女将の用事、 先輩の用事、お客の用事等々手伝うことは山ほどある。こうした生活の中で、自分以外の人のために動くというサービス業の基本的な精神を徹底的にたたき込ま れるのだ。一般的な家庭で、お手伝いは頼まれたらイヤイヤする事、と思ってきた少女が、早い子は半年もれすば結構気が付き、自分から用事を捜して動くよう になる。その頃には京都弁も身に付き、舞も形になってきて、いよいよ見世出しの段取りとな

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      舞妓になるには

      Posted by admin on 24th 5月 2008

      では、少女が一人前の芸妓になるまでの変化を、儀式とともに追ってみよう。 芸妓舞妓になりたいという少女が宮川町へくる場合、何らかのコネクションを頼りに紹介されてくるのが普通である。 女将の遠縁であるとか、馴染みの客の知り合いであるとか、地方のイベントへ出張した舞妓を見てその場で申し込んだり、 修学旅行で京都にきてみた舞妓が忘れられず、旅館のつてで、という人もいる。 現在では身売りなどという話は全くない。屋形の女将と面接の折は保護者同伴であることが望ましい。 未成年者であれば当然保護者の承認が必要だということもあるが、ともすれば誤解されがちなこの世界のしくみを、 しっかりと親御さんに説明し、理解してもらわねばならないからだ。
      一度舞妓になれば5~6年はやめることができないがその覚悟はあるか、 厳しい修行に耐えるだけの根性はあるか、を見抜くため、女将はゆっくりと時間をかけて説明をしながら本人や保護者の反応をチェックする。 もし本人がネを上げた時、「かわいそうに、すぐ帰っておいで」などという親ならばこの世界ではつとまらない。
      甘やかされて育った子かどうかは経験の長い女将ならすぐわかるという。 面接でOKがでれば、住み込みで修業に入る段階にかかる。 中学生かそれ以下ならば京都の学校に転入するか地元で卒業してから入るのか。 卒業していれば一日でも早く修行に入らなければならない。 普段着と身の回りの品をまとめればすぐ屋形に住み込むことができる。 この日から見習いに出る日まで少女は「仕込みさん」と呼ばれることになる。

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      舞妓と芸妓

      Posted by admin on 24th 5月 2008

      さて、いよいよ廓の花形、芸妓、舞妓について説明しよう。
      芸妓、舞妓は宴席の花である。華やかな衣装に身を包み、笑顔や会話で客の心を和らげ、三昧の音や舞でムードを盛り上げる。 ドンチャン騒ぎしたいときには賑やかに、落ち着きたいときはしっとりと、様々なお客のTPOに合わせて座敷をプロデュースするのは決して容易なことではない。 本芸に於いても、舞、唄、三味線、鳴物等、たいていは5~6つ以上の稽古事に通っている。 そうでなければ多様な客の要望に対応してはゆけないのだ。
      舞妓とは芸妓になる前の15才から20才くらい迄の少女のことである。 戦前は10才から15才の年少者であった為、座敷では舞だけを披露したのでこの呼び名がついたのが大正時代だとか。 江戸末期の町娘の姿を伝えるだらりの帯は全国にも知られ、京都観光事業の一端を担っている。
      芸妓も舞妓も長く裾を引いた着付けをする時は必ず左手で褄を持つ。 芸妓を俗に左褄と呼ぶのはこのとこからきている。 花嫁や太夫は右で持つがこの場合、右に褄の合わせ目がきてそのすぐ奥に長じばんの合わせ目があるので、つまりは手が入りやすいというわけだ。 左手で持てば褄の合わせ目は左、しかし長じばんの合わせ目は右であるから、男性が手を入れようとしても入らない。 芸は売っても身は売りませんよという意味で、芸妓舞妓は誇りを持って左褄を取るのである。

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      お茶屋

      Posted by admin on 24th 5月 2008

      次にお茶屋についてであるが、「茶屋」と称しても喫茶店ではない。 祇園甲部、祇園東、上七軒が、つなぎ団子をマークとしているのは、八坂神社、北野神社に参詣の客の為の茶店が発展してできた花街であるからで、 お茶屋という名称はその名残なのだ。
      茶店の頃はともかく現在ではお茶屋は全部「一見(いちげん)さんお断り」である。 「一見さん」とは初めて見る客という意味であり、つまりは完全会員制ということなのだ。 入会金などはいらないが、馴染みの客の紹介がなければ足を踏み入れられない、いかにも敷居の高そうなこの店を、どう理解すればいいのだろうか。
      一口に言ってイベント企画会社のようなものである。屋形(やかた-置屋のこと)は、プロダクション、芸妓はタレントといったところであろう。 お客が酒席をもうけたいと思いお茶屋に相談すれば、女将が屋形へ電話をかけ芸妓や舞妓の手配をする。 会場がお茶屋であれば酒や料理の手配(京都ではお茶屋と料理屋は分業されており、お茶屋で食事をする場合は料理屋からの仕出しとなる)、 ホテルや料理屋での宴席であるならば往復のタクシーの手配等々。お客の要望によっては料理屋や旅館、二次会のスナックの紹介までする。 そして花代や御祝儀、諸経費は全てお茶屋がたてかえ、後日まとめてお客に請求することになる。
      馴染みの客ならばサイフを忘れても一晩安心して遊べるというこのシステムは、お客とお茶屋の間に相当の信頼関係がなければ成り立たない。 「信頼できるお客様のご紹介ならば…」という「一見さんお断り」のしきたりは、300年の歴史の中で必然的にできた先人の知恵なのだろう。 またお客の立場からすれば、お茶屋の馴染み客となることは、仕事はもちろん、氏素性、マナーもきちんとしていると認められたという事であり、 京都の経済人の間で、お茶屋で遊ぶことが一つのステイタスになっている理由はここにある。
      現代社会の中でイベント企画としてのお茶屋の仕事はかなり多様化してきている。 酒席に限らず、イベントへの派遣、地方、海外への出張、繪や写真のモデルに舞妓が使われるのもしばしば。 着付教室の生徒(女性に限る)に、男衆(おとこし)と呼ばれる着付けの専門職が、芸妓舞妓の着付けを実演してみせることもある。 お客がある程度自由に企画でき、それに柔軟に対応していけるシステムであるからこそ、お茶屋遊びは幾時代も続いてこられたのだ、と言っても過言ではない。
      お茶屋の平均的な造りは、まず格子戸をくぐると玄関の間があり、すぐ二階へ続く階段が見える。二階はお座敷。 広間、表、中の間等々呼び名はお茶屋によって様々だが、2~3部屋あるのが普通。 一階部分、玄関の間の奥はお台所(おだいどこ)。炊事場ではなく、事務室兼茶の間の様なものだ。 女将が帳面をつけたり、芸妓がお酒や扇子を取りに来たり。 座敷よりこの雰囲気が好きなどと言って、なじみの妓や女将とうどんをすするお客もいるが、そこまで遊びなれる迄にはたいがいの時間がかかる。 お台所の次は奥の間。普通は女将の居住空間だ。次に「裏」と呼ばれる炊事場があり、中庭があったり、その向こうに離れ座敷があったりする。 舞妓の部屋やカラオケルームを持つお茶屋もあるが、いづれにしろ間口が狭く奥行きが広いウナギの寝床造りがほとんどだ。 この京都独得の建築用法はそのまま京都人の精神とも受け取ることができる。

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      宮川町

      Posted by admin on 23rd 5月 2008

      それでは宮川町という廓を紹介しよう。
      京都市東山区、鴨川の東岸に位置するこの廓の歴史は元禄時代にさかのぼる。室町時代に始まった祇園祭の神輿洗いの神事の際、御神水を汲み上げるため、鴨川の四条大橋から団栗橋迄の間を「宮川」と呼ぶのが地名の由来である。
      この地では、出雲の阿国が元禄の代に歌舞伎踊りを興行してから芝居小屋が立ち並ぶ場所となり(現在の南座もその一つである)、その見物客のために芝居茶屋 ができ、廓へと発展したらしい。芝居の役者、芸妓、遊女が同居した江戸時代のこの街は一種独特の味わいがあったに違いない。菊池寛の「籐十郎の恋」を読め ばその賑わいを垣間見ることができる。その昔、四条の南座を一丁目に五条の八丁目迄ズラリと軒を連ねたお茶屋は、現在では44軒。芸妓が40数名。舞妓が 20数名。その数は減少したが、京都五花街の中では2番目である。

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      砦の中の世界

      Posted by admin on 23rd 5月 2008

      なぜ、廓の人々の心の中に囲いができたのか。その要因を推察する時、水商売に対する偏見を述べないわけにはゆかない。
      ある者を軽蔑し、自分はそれより上だと安心するばかげた観念は、現代日本社会に根強く残り、一部地域の人々の心を傷つけているが、それとよく似た差別が廓 の人々に対しても行われることがある。「芸妓ふぜいが…」とか「芸妓あがりのくせに」などと軽蔑されるのもしばしば。結婚の時、相手方の親族に反対の理由 として取り上げられることもある。また、邦舞や邦楽の師匠や歌舞伎俳優などは、芸術院会員だの人間国宝だのと認められるのに芸妓からはまだ一人も出ていな いことを見てもその地位の低さが解っていただけよう。
      現代でもそうであるのだから廓の形成された時代ならばなおのことであり、しかも廓の人間のほとんどは自らの意志に反して家族の犠牲となり,身を売られてき た女性たちであったのだ。その人々がせめてもこの世界に中でのみ通用する道理をつくり、自らの心のなぐさめとしてきたのを誰が責めることができよう。そう でもしなければ、他のために苦界に身を沈め、しかもそれが故に差別を受けるという不条理を現実のものとした時、心のバランスを保ってはいられなかったので はないだろうか。廓独得の習慣や考え方を分析していると、どうもそんな気がしてくるのだ。例えば、舞妓や芸妓が姉妹の盃事をかわしたりするのは、家族に縁 の薄い人達が盃によって家族になり、助け合いを支え合ってゆきましょう、という意味だともとれる。旦那ができればお披露目をして祝福を受ける。世間一般で は「不倫」と呼ばれ、お国によっては死刑にもなりかねないこの行為が、廓の中では堂々と行われるのだが….
      一生結婚などできないかもしれない女性がせめてこの狭い世界の中だけでも、男女として認められたいと願うことを、倫理に反するの一言で片付けて良いものだろうか。心の中の囲いは、300年の歴史のごく早い段階で、内側、外側の両方から築かれたものと思われる。
      囲いの中の別世界では所帯じみた事はタブーである。昔は舞妓や芸妓は買い物は全て使用人にまかせる習慣であったらしい。どこそこのだれそれ姉さんは初めて 買い物をした時お金を払うことを知らなかった、等という話が尤もらしく語られており、自分で買うことよりも買ってくれるお客を持っていることの方が良しと される。掃除や洗濯や料理など手が荒れるようなことはしてはいけない。お客人は家庭を忘れようと廓に来ているのだから、荒れた手や大根一本いくらなどとい う話題は興ざめであるというのだ。物の値段を知らずもちろん自分の花代がいくらなどということも知らない。徹底して浮世離れした妓を作り出してきたのは、 案外お客を真ん中に「まちの女性方」と真っ向から張り合いたかったからかも知れない。
      家庭にあるものをサービスしても勝ち目はない。だから正反対のものを、と頭をひねり、長い間努力を重ねてきた結果としての廓のしきたりが、現代も男性の心 を掴んで離さない魅力となっている。女性方の力が強くなった昨今では、あくまでも男性本位である廓の考え方は、失われつつある大和撫子の魂の最後の砦と なっているのかも知れない。

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      「廓」の歴史・京の廓

      Posted by admin on 23rd 5月 2008

      「廓」は約300年前、男性にとっては「天国」女性にとっては「地獄」として形成された。江戸で吉原、京で島原とうたわれた2大遊廓の隆盛は文学や歌舞伎 にもしばしば登場する。夜というのに明るい町並み、座敷には酒や料理。三味や太鼓の音。そして美しい遊女。男たちはこぞってくり出した。しかし、派手に着 飾った遊女たちは実は貧しさのために身を売られてきたうら若き乙女ばかりだったのだ。美しい着物をまとい、酒やご馳走を前にして暮らしていても、彼女たち は廓を「苦界」と呼んだ。化粧より衣装よりもその「悲哀」が、彼女たちをいっそう美しく見せていたのだろうか。昭和33年に売春禁止法が出来てから、廓は 大きく変化した。吉原は姿を消し、島原には太夫は7~8人いるものの、観光ショーやお座敷に出るのみで、夜毎春をひさぐことはない。日本人の生活水準は向 上し、身売りなどということもない。自らの希望で太夫になり、誇りを持ってつとめている。吉原や島原など遊女を中心とした廓は、売春禁止法によって衰退し たが、芸妓を中心とした廓は今でもしっかりと生き続けている。

      京都には現在5つの花柳界が、芸妓、舞妓の活動の場として残っている。上七軒、祇園甲部、祇園東、先斗町、そして宮川町(アイウエオ順)。それぞれ300 年前後の歴史を持つ5つの界隈には、屏や堀の囲いはなく、一般の地域と地続きで誰でも自由に往来できる。一般の人々も住んでいる。が、そこには目に見えな い精神的な囲いがしっかりと残っているのだ。「廓」と書いて、「さと」と読むことがあるが、では「さと」の中から外を表現するときどう言うか。それは「ま ち」である。今でも宮川町では「まち」という言葉が頻繁に使われている。芸妓が素人向きの着物を着ていると「あんたはん、まちの人みたいやなぁ。」自前芸 妓が少し離れた所の住まいから通っていると、「あの人はまちに住んではるさかい、大変や。」と近所との生活習慣の違いを心配したり。町内に住んでいる一般 の人々のことを「あの人はお町方やから」と感覚の差を指摘する。形はなくても、心と生活の中で、歴然とした囲いが存在するのである。それが現在も人々を惹 き付けてやまない廓の魅力の本質なのではないだろうか。

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